中山太陽堂と花月

「団菊爺」(だんきくじじい)とはいつ誰が言い出した言葉なのか。

昔の団十郎(九代目市川団十郎)や菊五郎(五代目尾上菊五郎)の芝居ときたら、そりゃあたいしたものだった、それに比べれば、今の役者なんて大したことはない。あの団菊の舞台を知らないとは、かわいそうだ。と、昔はよかった式の、年寄の謂いである。

 

井原青々園の『団菊以後・続』(相模書房 昭和12年)に、花月の女将が出てくるので、書き写しておく。

 

 そのころ新橋の花月の女将を筆頭に、羽左衛門びいきの五人組があつたが、桂華が羽左衛門に似て居るといふので、『国民新聞』で桂華の眼上だつた結城礼一郎君が、いたづら半分に当人をその五人組の集まつてゐ花月へ連れて行つた。皆がチヤホヤすると当人は開き直つて

 「皆さんが歓迎して下さるのは、僕の男ぶりがいゝからですか、それとも書いた作品がいいからですか。」

 とマヂメでやらかした。そのうちに桂華を冷かした藝者があつたので、後でその藝者の所へ竹筒に薊を挿して送つたさうである。その意味はよく分らないが、お前は下品で刺があるといつたやうな心持だつたかと思ふ。その時分から間違つて居たのであらうが、間もなくと京都へ立つて行つた。その際にわたしの所へ会ひに来て、脚本についていろいろ世話になつた礼を述べ、何処かで一遍御馳走したい、なぞといふのが全く正気の人のやうであつた。

 

「その頃」とは、明治41年と思われる。羽左衛門市村羽左衛門で美男子で知られる歌舞伎役者。花月楼女将が羽左衛門びいきであったことは、河瀬蘇北の文章にも、女将と羽左衛門の間になにかあったかのような書き方をしていることでもうかがえる。

その羽左衛門と似ていたという「桂華」は山田桂華。もともと京都の日出新聞の社会部長だったが、東京の国民新聞に転じ、さらに中央新聞の記者となる。「都新聞」の懸賞募集に、『醍醐の花見』で入選。結城礼一郎も国民新聞の記者だが、現在では『旧幕新撰組結城無二三』(中公文庫)の著者として名を残している。

「その時分から間違つて居たのであらう」、「全く正気の人のやうであつた」とあるのは、その後、京都に戻った山田桂華は結核をわずらい、二十九歳で狂死したからだ。

 

『団菊以後・続』から、もう一か所、花月の女将が登場するくだり。

 

 雁之助が新富座で『紙治』をした四十四年の十一月、わたしは用事と遊びを兼ねて大阪へ行つた。用事といふのは中山太陽堂が三都の名妓を集めて中の島の公会堂で舞踊会を催すにつき、見学かたがたそれを後援するためであつた。東京から行つた藝者は新橋の連中で、今の花月寿美江、その高弟の米松、これらが踊手で、地方では故人となつた喜代次をはじめ、おくめ、すま子、お蝶などの姉え株から若手の綺麗どころを合せて何十人といふ一行で、花月の女将がその宰領として附添うた。

 

今の大阪市中央公会堂は大正に入ってからの竣工だから、この「中の島公会堂」は別だろう。ここに登場する名妓を片っ端から調べたい気もするが、あまり寄り道もしていられない。引用を続けると、

 

 これに大阪と京都とを合せて、三日か四日つゞきの催しで、太陽堂がこのために費つた高は、その頃の金で何万円といふから、今の相場にしたら大層なものであるのみならず、今日では何なに金を積んでもアゝいふ大袈裟な会は出来なかろう。

 わたしの仲間は、近ごろ歿した中内蝶二をはじめ、小山内薫、柳川春葉、そういふ人たちで、われわれも藝者も中の島の銀水に泊まつて居たが、毎日舞踊会のはじまるまでは東京から運んで行つた太陽堂の自動車で諸方を乗廻した。その頃は大阪に自動車がまだ二台とかより無かつた時代で、われわれの車が通ると往来の人が皆立停つて見た。

 

中山太陽堂は化粧品の会社で、今もクラブコスメチックの社名で現在に至っている。

明治の当時は「クラブ洗粉」や「クラブ石鹸」が人気だった。そういえば、ヨーロッパから帰国した平岡静子が「花月堂洗粉」を製造販売したことを思い出す。

中山太陽堂は広告宣伝に力を入れており、内田魯庵が『バクダン』(春秋社 大正15年)で記しているところでは、

 

 日露戦争後の今日の新聞広告欄を占領するは化粧品と売薬と雑誌とであつて、広告全体が著しく進歩したが、群雄盤踞で特に一頭地を擢んづるもは無い。此中に若し最近の広告界の第一人者を挙げるなら、クラブ洗粉の中山太陽堂であらう。無一文から叩き上げたクラブの大成功は主として、新聞広告の為めであつて、此の不思議な大成功が刺戟して御園やレートや其他の化粧品を一斉に奮起さした。仁丹も亦広告界の驍勇であるが、クラブに比べては一着を輸さねばならない。クラブは実に新聞広告に由て成功した最近広告界の第一人者である。(二十四)広告(5)広告の成長

 

中山太陽堂の広告戦略についてはかなり興味深いので、さらに掘り下げてみたいのだけれど、ここでは一つだけ、先の伊原青々園の文章に関係していそうなエピソードを引く。

 

 明治43年4月21日、大阪のクラブ化粧品中山太陽堂がフォードR型を購入して大阪、名古屋市内を宣伝して廻った。社長中山太一は新しい乗り物が現れると、それをすぐ宣伝に使用し、話題づくりにも敏腕を発揮した。大正2年ごろからは飛行機で朝鮮京城、四国松山、鹿児島、奈良などで飛行機大会を開催して、宣伝ビラを撒いたりしている。

 世間の大きな話題になるものを、宣伝に利用するのは商店の常道であるが、その点で自動車や飛行機は特に宣伝的価値があった。三井呉服店、亀屋、キリン・ビール、エビス・ビール、クラブ化粧品、桃谷順天館、丸善万年筆、太田胃散、など明治時代にたびたび自動車を広告に使用している。(佐々木烈『日本自動車史Ⅱ日本の自動車関連債業の誕生とその展開』三樹書房 2005年)

 

 伊原青々園たちが大阪で乗っていたのがこのフォードR型かどうかはわからないし、また少々時期にずれもある。それにしても、新しいものというのはそれだけで価値があり、人目を惹く、広告になるようだ。中山太陽堂はそのセンスが際立っていたようで、先の三都の名妓の舞踊もおそらく広告をねらってのことだろうし、自動車で諸方を乗り回したのもそうだろう。

そして、この中山太陽堂は花月と浅からぬ縁があり、この項は次回以降に続く。