常陸山の渡米(その3)

坪谷善四郎は号水哉、博文館の雑誌「太陽」の初代主筆で出版人。

その著書『海外行脚』(博文館 明治44年)は海外旅行、海外渡航の模様をかいた本。その「北米西海岸行脚」の一節。時は明治40年、常陸山の渡米の少し後の9月のこと。日本郵船信濃丸が、カナダのヴィクトリア港を経て、シアトルへ入港しようとしている。

 

 翌十九日の朝、常より早く起き出れば、船は最早ヴィクトリア港から六時間の航程を走つて、ポート、タウンセントに停泊中だ。西南を望めば、海岸に大市街横はり、山の如く木材を積む。是れが即ち米国太平洋岸北方の要港シヤトル市だ。昨朝は英国の検疫を受けたが、今また米国に入るに臨み、検疫医、移民官など、交る交る入り来り、更に厳重なる検疫と、トラホームの有無を検査する。面倒なる旅券の取調べも了り、無事に入国認可を裏書せられ、余等は始めて上陸することゝ為つた。

 

この時代、カナダはまだイギリス領。シアトルは木材の集積地のようだ。

入国にあたって検疫は当然としても、別に検査するほどトラホーム(トラコーマ)は危険な疫病であったのだろうか。また移民管というのが、いかにもアメリカを思わせる。黄禍論との関連もあるのかもしれない。

いづれにしろ無事に上陸許可が出たのはよかったが、

 

 時に船客中に一少女が居る。東京新橋の花月楼女将の女(むすめ)で、本年十四歳、女優になりたい志願で、シヤトルの日本タイムス記者藤岡紫郎氏に托せられ、此処まで来たのだが、年齢が幼い上に、保護者が無いとて、上陸を許可されぬ。航海中は大元気の少女も、此れには大いに困つたが、藤岡氏が先づ上陸し、在米日本人の領袖山岡音高氏と謀つて、同氏が全責任を負ひ、自ら保護者と為り、少女は漸く上陸が出来た。

 

今とは時代が違う。

十四歳の女の子を単身でアメリカに渡航させるとは突拍子もない。

花月楼女将は、まず夫妻で欧米視察に出、その後は単独で一年に及ぶ海外漫遊を行っているようだが、だからと言って年端もいかぬ娘ひとりを海外に出すというのは思い切った行動だ。しかも、その動機が女優志願だという。川上貞奴なら女優が海外に行った例だが、海外で女優修行という話は当時あったのかなかったのか。女子はじめての海外留学川上捨松のころから年月はたっているとはいえ異例ではないか。そして、花月の娘は念願の女優になったのかどうか。

『海外行脚』には、その後のこの娘のことは出ていない。

関係者は二人。藤岡紫郎と山岡高音。

その藤岡紫郎『歩みの跡 北米大陸日本人開拓物語』(歩みの跡刊行後援会 1957年)は、書名のとおりアメリカに移住した日本人の歩みを描いて、ロサンゼルスで刊行されたものである。

ここに花月楼女将平岡静子の娘のことが出てくるが、まずは常陸山と山岡高音から話を書き起こさねばならない。

 

山岡高音(養子先の鈴木姓の時代もある)は、自由民権運動のなかで政府の転覆をはかった静岡事件の中心人物の一人。逮捕、拘留ののち刑期途中で恩赦され、その後アメリカにわたって実業家となる。この人物についてもいろいろと知りたいのだけれど、それはさておき、山岡高音はアメリからしばしば日本に帰国しては演説や講演を行っているようだ。その模様を藤岡紫郎が書き記している。

 

 山岡さんが一たび演壇に立つと水を一滴も呑まず、滔々懸河の雄弁を揮い、二時間でも三時間でも多々ますます弁ずるのである。適所にユーモアをまじて人のアゴを解くあたり擒縦自在少しも渋滞しない。したがって聴衆は倦むことを知らず、長講ほど歓迎するのである。

 山岡さんはまた座談の雄でもあった。日本各地を巡回中、政友や旧知の人たちから、よく招待されたものだ。ほとんど毎晩料亭の客となった。座にはんべる大小の芸者衆はお酌をすることを忘れて巧妙なその座談に恍惚と聴き入っているというありさま、すると山岡さんはオイオイそうお行儀よく膝に手を置いて、話に聴き呆けては困るヨ、チとお酌をせんか、とからかう。しかして大きな茶のみ茶碗をグッと差出す。それになみなみとつがしては、一気にぐっと呑み干す。小盃でチビチビやるのは面倒臭いというのだ。

 

さて、その料亭の一軒が、新橋の花月楼である。ここに渡米をひかえた常陸山が登場する。

 

 その当時の横綱常陸山が渡米の折、一夕新橋の「花月」で、女将のお静さんが日頃常陸山のごひいき筋とあって、山岡さんに紹介の労を執り、万事よろしくと頼み込んだのであるが、その席上、常陸山対村岡さんの酒戦は実に物凄く、げこの私などハラハラ胆を潰すばかり、双方とも大茶碗をさしつさされつ、果ては盃洗の大どんぶりで負けず劣らず呷るのであった。常陸山の方は知らないが、山岡さんは少しも紊れた態度がなく、平然として宿に帰り、雷のようなイビキですぐ寝入ってしまった事など、今私の記憶に甦って来る。

 

花月の女将は、前回見たように常陸山に渡米の餞別として避妊具を贈るという悪戯だけでなく、アメリカ滞在中のことを托せる人物を紹介していたのである。実際に常陸山がシアトルの村岡高音のもとを訪れたのか、便宜を受けたのかどうかはわからないけれど、常陸山の渡米には前回の北里柴三郎などいろいろな人の援助があったようである。

しかしここから話は妙な方向へいく。すなわち、娘の渡米である。

 

花月の女将は、山岡さんの豪傑ぶりにぞっこん惚れ込んだものと見え、当時十四歳になる一粒種の可愛い娘みっちゃんを山岡さんに托してアメリカに送って教育を授けたいという話が決定、山岡さんは即座に快諾されたのはいいが、その娘さんの渡航準備がまだ整わないうちに、急に帰米の途についてしまった。

 出発に際して、私の諾否は別として、女将に向って“みっちゃんは藤岡君が同伴するからそのつもりで”とさっさと帰米したのである。

 

船が港についてから山岡高音に身元引受を頼んだのではなく、渡米の前から話はついていたようである。ただ、渡米の目的が女優修行であったのかどうか、ここではわからない。開明的な平岡静子のことだから、娘にアメリカの教育を受けさせたいと思ったのではないかと想像する。

なお、藤岡紫郎は、「みっちゃん」を一粒種としているが、他の資料では平岡静子には子どもが二人いたような記述もあり、詳しくはわからない。花月楼平岡廣高と静子夫妻には、画家権八郎が養子にあり、それとは別に実子がいたということか。

さて、話は「みっちゃん」の渡米である。

 

 そこで、よんどころなく私は同伴したのであった。波止場に出迎えられた山岡さんに、即刻引き渡してほっと安堵の思いをした。そんなことは一向にお構いないらしく、そのいい草が振っていた。“君、とんだみやげをことずかって来たね”と、いつもの調子で呵々大笑されたのには、かねがね山岡さんの気質を人一倍知っている私ながら、ウンザリせざるを得なかった。

 

シアトル到着時の様子に『海外行脚』の記述のような揉め事が出ていない。藤岡紫郎にしてみれば、最初から山岡高音に引き渡す話がついていたのだから、トラブルでもなんでもなかったのかもしれない。

入国を果たした娘は、その後、どうなったか。

 

山岡さんにして見ると、この小娘のアメリカ教育を引受けると申したのは、いわば、ホンの酒間の座興であったのかも知れない。だが頼むほうは真剣でひた向きの念願だったために、途中で“アレはじょうだんヨ”とは、なんぼ人を喰った山岡さんでも取消すことができず、ぞくにいう瓢箪から駒が飛び出したのである。何しろまだ物の哀れさを知りそめぬ十四歳の小娘、それに加えて放縦な狭斜の衢に生い育ったために、不躾放題の我儘一っぱい、まったく手が付けられない。これには山岡さんよりも朝夕何かと面倒を見てやる夫人がホトホト持てあまさざるを得なかった様子だった。たかが十三、四の小娘一人の料理が出来んで、どうするか、とはいっては見たが、所詮どうにもならないので、一年とたたないうちに、とうとう故国の親許へ送還してしまったのであった。