東京市中音楽会

  あまり古いことのみですから、明治二十二年と新しがって(といっても今より五十六年前ですが)、新橋村の芸妓さんたちが、どんな風に活きていたかイヤサ不良を張っていましたかといいますと、分なもんで、まだ花月の親爺の平岡広高が海軍の予備軍楽隊を集めて、市中音楽隊をドンガラゴンガラ、お料理のツマに演(つか)っていた頃ですが、「第二回音楽生徒募集」なんて札を張っていました。(略)篠田鑛造『銀座百話』(角川選書 昭和49年)

 

 花月楼亭主平岡廣高は料亭経営にとどまらず、いろいろな事業に手を伸ばしたが、ここにでてくる「市中音楽隊」もその一つである。

市中音楽隊について、もう少し詳しく書いているのが、堀内敬三『音楽明治百年史』(音楽之友社 昭和43年)で、

 

 最初の民間吹奏楽団は東京市中音楽会である。明治十九年十一月、海軍軍楽隊出身者の加川力ほか五名が新橋花月割烹店主平岡廣高の財的援助によって是を設立し、新聞広告による百二名の応募者中から二十六名を選出し生徒として入会せしめ、事務所を愛宕下の薬師寺に、練習所を下渋谷の某禅宗寺院に置き、横浜の某ホテルにチャリネ曲馬団や外国汽船の楽士が酒代のカタに置いて行った楽器を安く手に入れて楽器の数も揃はぬながら練習を始めた。

 

加川力は「かがわつとむ」。ほか五名は、同じく堀内敬三『音楽五十年史』(鱒書房 1948年)では、井上京次郎、平岡啓二郎、西村源八、芳ヶ原嘉成、古賀某で、このうち平岡啓二郎の伯父が平岡廣高である。

音楽会といっても、コンサートではなく、ブラスバンドに近い。

料亭経営者が、なぜブラスバンドに金を出したのか。

『音楽明治百年史』によって、設立以降の経緯をたどると、楽器の練習をはじめ、チャリネ曲馬団の楽士ジョージを楽長に招く。チャリネ曲馬団は、イタリアのサーカス。ジョージなる男はコルネットは達者ながら、楽譜が読めないというのでいたたまれず、逃げ出してしまう。

それでも練習を続けて半年後、行進曲、ポルカ、円舞曲など15曲のレパートリーをマスターし、そこでまた生徒を募集、明治二十二年の開業を発表。『銀座百話』に出てくる第二回生徒募集の貼り紙はこのときのものなのか、多少時期が合致しない。

不ぞろいだった楽器も上海から取り寄せ(当時、西洋音楽では上海のほうが先を行っていたと見える)、出張演奏をはじめておこなう。

 

 (略)それは上州桐生の某製紙会社の開業式。力川が指揮者で総勢三十二人。旅費宿泊費は依頼者負担で謝礼は六百円という当時としては大金であった。

 出演依頼は意外に多かった。園遊会・運動会・開業式、寧日なしの演奏であった。そこでまた西洋人の楽長がほしくなって、横浜在泊の米国軍艦マナカッシー号乗組のリゼットというイタリア人の信号兵を月給百二十円で雇い入れ教授させた。

 

維新後、政府は多額の費用をかけて西洋の「お抱え外国人」を雇ったが、民間でも同じことが起きていたようだ。

また園遊会や運動会はそれまでの日本にあったものか、あるいはこれも西洋から入ってきた風俗なのだろうか。

それよりもなによりも、民間初の吹奏楽団を組織した花月楼亭主は、このあと鶴見花月園に日本初のダンスホールを開くのだから、日本の西洋音楽受容史に大きな役割を果たしたことになる。

 

そのうちに横浜のグランド・ホテルから連続的に演奏を頼まれたので、リゼットは加川と生徒をたちとつれて総勢十六人横浜に出張所を設けてその方に詰め、残余の者は東京にいて毎日のように出張演奏をやった。東京市中音楽隊はこうして、明治二十一年には渋沢栄一を社長とする資本金一万円の株式会社になった。株主は渋沢栄一。平岡広高ほか二、三名である。

 

ここに至って財界の大物渋沢栄一が登場する。

平岡廣高はあれこれ手を出して失敗も多いが、この音楽隊は成功の部類ではないかと見えるのだが、ここに別の資料があって、昭和10年趣味の人社から出版の『趣味大観』では、上記の経緯はこうある。

 

かくて民間最初の音楽隊は明治二十一年に至って創設された。此の楽隊の中心は海軍々楽隊を退職した加川力・井上京次郎の両氏、資本主は故鶴見花月園経営者平岡氏で、名前は株式会社東京市中音楽隊と称した。楽器は横浜五十五番のコッキング商会に十六人分あつたのを、千二百円と云ふ当時に於いては可成りの高価を以つて買ひ取り教師には丁度其の頃横浜に入港して居た米艦の信号喇叭手仏蘭西人リゼツチーと云ふ者を雇ひ入れて練習を積み其の初演奏は明治二十二年の上野池の端に競馬場が出来た時行つた。

 

リゼットとリゼツチーは同一人物だろうが国籍が違う。

また初演がかたや桐生の製紙会社の開業式、かたや上野の競馬場。平岡廣高の経歴からすると、競馬場とするほうが自然だが、実際のところはわからない。

その経営状態も様子がちがっていて、『趣味大観』のほうは、

 

当時民間にい於いては可成り洋楽に対して興味を持つ様になつて来たが、之を雇ふ者が稀であつたので、全員四十人に達する同音楽隊の維持は困難であつた。そこで百方奔走の結果横浜グランドホテルに交渉して毎週一回づゝホテルの舞踏会で演奏をする様になり漸く収支償ひ得る様になつた。

 

横浜グランドホテル側から依頼を受けたのか、こちらから頼み込んだのか、実際のところは判断しかねる。

このあとの顛末も両者で異なる。まずは『音楽明治百年史』。

 

 明治二十二年の末に、海軍軍楽隊を満期退職する者が多かったので、その人々は東京市中音楽会へ入ろうとしたがリゼットに拒まれ、そこで新たに「東洋音楽会」というものを作った。これは池田辰五郎など十三名でいずれも技量の良い連中である。資本金は芝神谷町の金貸中村ミサが二千五百円出し、横浜コッキング商会に、海軍へ納入の予定で在庫品となっていたベッソン会社製の楽器十六個一組のものがあったので、それを千九百円で買い、麻布日ガ窪の基督教会堂で練習を始めた。この東洋音楽会は横浜グランド・ホテルに行くようになり、しばらくリゼット・加川の組と対抗してやっていたが、二十二年の夏ごろ合併して「東洋市中音楽会」と称し、リゼット・加川の組は敗北して明治二十五年に神戸のオリエンタル・ホテルへ赴き、神戸市中音楽会を創始した。

 

次に『趣味大観』はというと、

 

かくして市中音楽隊の基礎が漸く確立しやうとした頃、海軍々楽隊より十八人もの楽手が退職して一挙に市中音楽隊に加入せんとしたが果さず、前記の加川力氏を中心にして東洋音楽会と称するものを作つた。こゝに於いて民間の音楽隊が二つになり、相対立して盛んに洋楽の普及に努めたが然し当時の社会状態は両者が並び立つて行く程に迄進歩して居なかつたので、遂に互ひに其の競争に堪へ兼ねて、一つにい合同し東洋市中音楽隊となつた。尚ほ明治二十五年の春両者合同後横浜グランドホテルのリゼッチー一派は神戸市に移り、同地のオリエンタルホテルを根城として神戸市中音楽会なるものを作つた。

 

加川力はどちらに組していたのだろう。

『音楽明治百年史』では、リゼット・加川がセットで「東京市中音楽会」だが、『趣味大観』では加川は当初から「東洋音楽会」でリゼッチーと対立したかのようである。

また『趣味大観』に、平岡啓二郎や渋沢栄一の名前が出てこないのも気になる。

このあたりは、もう少し調べることとして、音楽隊の活躍した場所が横浜や神戸という港町である点は。なるほどと納得できる。

もう一つ、『音楽明治百年史』の文章を引くと

 

 こういう吹奏楽団は後年のジンタとちがって演奏会用の吹奏楽団であった。演奏者たちは新しい音楽を民間に普及させるというような考えでやっていたので、事実上収益は多かったものの、これを営利追求の手段とも考えてはいなくて、どこまでも音楽的企業であった。

 

このあたり、どこまでも子供中心の遊園地としてつくった鶴見花月園とも通じるように思われる。だとすれば、平岡廣高はどこまでかかわっていたのか、またその後の東京市中音楽会はどのような道のりをたどったのか。確かめたいことはいろいろと増えていく。