巴里髑髏洞の面々

東京駅にレストランを開くため、欧米視察に出た平岡廣高、静子夫妻の足取りはなかなかつかめない。

齋藤美枝『鶴見花月園秘話』(鶴見区文化協会 2007年)によると、明治45年5月12日、午後6時30分新橋発の急行で敦賀に向けて出発。敦賀から船でウラジオストックにわたり、そこからはシベリア鉄道である。

ロシア、ベルギー、イギリス、イタリア、ドイツ、スイス、フランスを五か月かけて周遊し、8月25日マルセイユを発って帰国の途につく。新橋に戻ったのは、10月2日。旅行中に改元があって大正元年である。明治天皇崩御している。

 

フランスで与謝野鉄幹・晶子と食事をともにしたと江刺昭子+史の会『時代を拓いた女たち第Ⅱ集』(神奈川新聞社)にあったが、それもまだ確かめえない。鉄幹・晶子が帰国後に出版した『巴里より』(金尾文淵堂 大正3年)の「髑髏洞(カタコンブ)」にわずかに登場するばかりだ。

 

 和田三造さんから切符を貰つたので巴里の髑髏洞を一昨日の土曜日に観に行つた。予め市庁へ願つて置くと毎月一日と土曜日丈に観ることが許されるのである。自分は一体さう云ふ不気味な処を見たくない。平生から骨董がかつた物に余り興味を持つてない自分は、況して自分の生活を全く交渉の無い地下の髑髏など猶更観たくないが、好奇心の多い、何物でも異つた物は見逃すまいとする良人から「自動車を驕るから」などと誘かされて下宿を出た。零時半の開門の時間まで横町の角の店前(テラス)で午飯(ひるはん)を取つて待つて居ると、見物人が自動車や馬車で次第に髑髏洞の門前に集つて来た。中に厚紙の台に木の柄を附けて蝋燭を立てた老爺が一人混つて居る。見物人は皆其れを争つて買ふのである。其内に和田三造さんと大隅さんとが平岡氏夫婦を案内して馬車を下りるのが見えた。自分達もレス多ウランを出て皆さんと一緒に成つた。

 

このあと、与謝野夫妻他一行は髑髏の並んだ地下墓地へ入っていくのだが、それはさておき、与謝野夫妻と平岡夫妻は、これが初対面だったのか、あるいは日本ですで旧知だったのか。その場の会話や両夫妻の様子など、この文章には出てこないので、わからない。

登場人物は、五人。

和田三造は洋画家。東京国立近代美術館にある「南風」(重要文化財)が特に有名で、

このとき、文部省から派遣されてフランスに留学中だった。和田三造作は白馬会に所属し、黒田清輝に師事、これはともに平岡夫妻の養子平岡権八郎と同じである。それで和田三造が平岡夫妻を案内していたのだろう。偶然にも、和田三造、平岡権八郎ともに明治16年3月3日生まれである。いわば息子が両親を観光案内している図に近い。

また与謝野晶子の『佐保姫』(日吉丸書房 明治42年)に和田三造は挿絵を描いているので、接点はあrった。直接の面識があったかどうか、全集などをあたって確かめたいところだ。こういうことは、与謝野晶子の研究者がきっと調べているだろう。

 

大隅さん」がわからない。「大隈」には「おほすみ」とルビが打たれている。

勉誠出版の『鉄幹晶子全集(10)巴里より・八つの夜』では、「大隅」に注釈はつけられていない。別の全集をあたるべきか。

ちなみに平岡権八郎は、大正6年の第11回文展に「大隅氏の肖像」を出品し、特選を得ている。この「大隅氏」は、パリにいた「大隅さん」と同一人物だろうか。

 

こういう文章が手掛かりになるかもしれない。

小野賢一郎『陶心俳味』(茜屋書房 昭和6年)の「開眼供養」の一節。

 

 昼近くなつて和田三造、平岡権八郎の両君がやつて来た。陶器を見て鶏龍山と宋赤絵がいゝといつてゐた。仏様を拝んでくれた。「これはいゝこれはいゝ」といつてゐるところへどやどやとやつて来た。曰く岡田三郎助、辻永、大隅為三の諸君である。

 

この大隅為三が「大隅さん」「大隅氏」かどうか。

大隅為三であれば、『日本美術年鑑 第3巻』(画報社 大正2年)によると、

 

明治一四九月十五滋賀県東浅井郡大郷村落合生、考古学及美学専攻、三七年東洋大学卒、三八年に仏国に留学、仏国クルボン大学にて古典文学美術を研究四四年同大卒、四三年より四五年迄巴里ヱネリ博物館勤務、後欧州各地南洋及印度に遊歴し、大正二年二月帰朝(略)

 

とあるから、明治45年当時はパリにいたようで、「大隅さん」が大隅為三である可能性は高まるが、与謝野、平岡両夫妻と旧知であったかまではわからない。

ちなみに「クルボン大学」は「ソルボンヌ大学」の誤植かもしれない。「ヱネリ博物館」もよくわからない。更に言えば、「開眼供養」の筆者小野賢一郎はこれらの人々とのかかわりはどういうものだったのか。

そこまで踏み込んで何が出てくるのか、なにも出てこないかもしれないが気にはなっている。

 

与謝野晶子の「髑髏洞(カタコンブ)」から画家美術家の交友関係の一端が垣間見える。平岡権八郎には一方で養父から継いだ花月楼亭主としての顔もある。二つの顔を持つ平岡権八郎の足跡もまた義理の両親に負けず劣らず面白いのだけれど、それはまた後日の話。