中山太陽堂と花月

「団菊爺」(だんきくじじい)とはいつ誰が言い出した言葉なのか。

昔の団十郎(九代目市川団十郎)や菊五郎(五代目尾上菊五郎)の芝居ときたら、そりゃあたいしたものだった、それに比べれば、今の役者なんて大したことはない。あの団菊の舞台を知らないとは、かわいそうだ。と、昔はよかった式の、年寄の謂いである。

 

井原青々園の『団菊以後・続』(相模書房 昭和12年)に、花月の女将が出てくるので、書き写しておく。

 

 そのころ新橋の花月の女将を筆頭に、羽左衛門びいきの五人組があつたが、桂華が羽左衛門に似て居るといふので、『国民新聞』で桂華の眼上だつた結城礼一郎君が、いたづら半分に当人をその五人組の集まつてゐ花月へ連れて行つた。皆がチヤホヤすると当人は開き直つて

 「皆さんが歓迎して下さるのは、僕の男ぶりがいゝからですか、それとも書いた作品がいいからですか。」

 とマヂメでやらかした。そのうちに桂華を冷かした藝者があつたので、後でその藝者の所へ竹筒に薊を挿して送つたさうである。その意味はよく分らないが、お前は下品で刺があるといつたやうな心持だつたかと思ふ。その時分から間違つて居たのであらうが、間もなくと京都へ立つて行つた。その際にわたしの所へ会ひに来て、脚本についていろいろ世話になつた礼を述べ、何処かで一遍御馳走したい、なぞといふのが全く正気の人のやうであつた。

 

「その頃」とは、明治41年と思われる。羽左衛門市村羽左衛門で美男子で知られる歌舞伎役者。花月楼女将が羽左衛門びいきであったことは、河瀬蘇北の文章にも、女将と羽左衛門の間になにかあったかのような書き方をしていることでもうかがえる。

その羽左衛門と似ていたという「桂華」は山田桂華。もともと京都の日出新聞の社会部長だったが、東京の国民新聞に転じ、さらに中央新聞の記者となる。「都新聞」の懸賞募集に、『醍醐の花見』で入選。結城礼一郎も国民新聞の記者だが、現在では『旧幕新撰組結城無二三』(中公文庫)の著者として名を残している。

「その時分から間違つて居たのであらう」、「全く正気の人のやうであつた」とあるのは、その後、京都に戻った山田桂華は結核をわずらい、二十九歳で狂死したからだ。

 

『団菊以後・続』から、もう一か所、花月の女将が登場するくだり。

 

 雁之助が新富座で『紙治』をした四十四年の十一月、わたしは用事と遊びを兼ねて大阪へ行つた。用事といふのは中山太陽堂が三都の名妓を集めて中の島の公会堂で舞踊会を催すにつき、見学かたがたそれを後援するためであつた。東京から行つた藝者は新橋の連中で、今の花月寿美江、その高弟の米松、これらが踊手で、地方では故人となつた喜代次をはじめ、おくめ、すま子、お蝶などの姉え株から若手の綺麗どころを合せて何十人といふ一行で、花月の女将がその宰領として附添うた。

 

今の大阪市中央公会堂は大正に入ってからの竣工だから、この「中の島公会堂」は別だろう。ここに登場する名妓を片っ端から調べたい気もするが、あまり寄り道もしていられない。引用を続けると、

 

 これに大阪と京都とを合せて、三日か四日つゞきの催しで、太陽堂がこのために費つた高は、その頃の金で何万円といふから、今の相場にしたら大層なものであるのみならず、今日では何なに金を積んでもアゝいふ大袈裟な会は出来なかろう。

 わたしの仲間は、近ごろ歿した中内蝶二をはじめ、小山内薫、柳川春葉、そういふ人たちで、われわれも藝者も中の島の銀水に泊まつて居たが、毎日舞踊会のはじまるまでは東京から運んで行つた太陽堂の自動車で諸方を乗廻した。その頃は大阪に自動車がまだ二台とかより無かつた時代で、われわれの車が通ると往来の人が皆立停つて見た。

 

中山太陽堂は化粧品の会社で、今もクラブコスメチックの社名で現在に至っている。

明治の当時は「クラブ洗粉」や「クラブ石鹸」が人気だった。そういえば、ヨーロッパから帰国した平岡静子が「花月堂洗粉」を製造販売したことを思い出す。

中山太陽堂は広告宣伝に力を入れており、内田魯庵が『バクダン』(春秋社 大正15年)で記しているところでは、

 

 日露戦争後の今日の新聞広告欄を占領するは化粧品と売薬と雑誌とであつて、広告全体が著しく進歩したが、群雄盤踞で特に一頭地を擢んづるもは無い。此中に若し最近の広告界の第一人者を挙げるなら、クラブ洗粉の中山太陽堂であらう。無一文から叩き上げたクラブの大成功は主として、新聞広告の為めであつて、此の不思議な大成功が刺戟して御園やレートや其他の化粧品を一斉に奮起さした。仁丹も亦広告界の驍勇であるが、クラブに比べては一着を輸さねばならない。クラブは実に新聞広告に由て成功した最近広告界の第一人者である。(二十四)広告(5)広告の成長

 

中山太陽堂の広告戦略についてはかなり興味深いので、さらに掘り下げてみたいのだけれど、ここでは一つだけ、先の伊原青々園の文章に関係していそうなエピソードを引く。

 

 明治43年4月21日、大阪のクラブ化粧品中山太陽堂がフォードR型を購入して大阪、名古屋市内を宣伝して廻った。社長中山太一は新しい乗り物が現れると、それをすぐ宣伝に使用し、話題づくりにも敏腕を発揮した。大正2年ごろからは飛行機で朝鮮京城、四国松山、鹿児島、奈良などで飛行機大会を開催して、宣伝ビラを撒いたりしている。

 世間の大きな話題になるものを、宣伝に利用するのは商店の常道であるが、その点で自動車や飛行機は特に宣伝的価値があった。三井呉服店、亀屋、キリン・ビール、エビス・ビール、クラブ化粧品、桃谷順天館、丸善万年筆、太田胃散、など明治時代にたびたび自動車を広告に使用している。(佐々木烈『日本自動車史Ⅱ日本の自動車関連債業の誕生とその展開』三樹書房 2005年)

 

 伊原青々園たちが大阪で乗っていたのがこのフォードR型かどうかはわからないし、また少々時期にずれもある。それにしても、新しいものというのはそれだけで価値があり、人目を惹く、広告になるようだ。中山太陽堂はそのセンスが際立っていたようで、先の三都の名妓の舞踊もおそらく広告をねらってのことだろうし、自動車で諸方を乗り回したのもそうだろう。

そして、この中山太陽堂は花月と浅からぬ縁があり、この項は次回以降に続く。

常陸山の渡米(その3)

坪谷善四郎は号水哉、博文館の雑誌「太陽」の初代主筆で出版人。

その著書『海外行脚』(博文館 明治44年)は海外旅行、海外渡航の模様をかいた本。その「北米西海岸行脚」の一節。時は明治40年、常陸山の渡米の少し後の9月のこと。日本郵船信濃丸が、カナダのヴィクトリア港を経て、シアトルへ入港しようとしている。

 

 翌十九日の朝、常より早く起き出れば、船は最早ヴィクトリア港から六時間の航程を走つて、ポート、タウンセントに停泊中だ。西南を望めば、海岸に大市街横はり、山の如く木材を積む。是れが即ち米国太平洋岸北方の要港シヤトル市だ。昨朝は英国の検疫を受けたが、今また米国に入るに臨み、検疫医、移民官など、交る交る入り来り、更に厳重なる検疫と、トラホームの有無を検査する。面倒なる旅券の取調べも了り、無事に入国認可を裏書せられ、余等は始めて上陸することゝ為つた。

 

この時代、カナダはまだイギリス領。シアトルは木材の集積地のようだ。

入国にあたって検疫は当然としても、別に検査するほどトラホーム(トラコーマ)は危険な疫病であったのだろうか。また移民管というのが、いかにもアメリカを思わせる。黄禍論との関連もあるのかもしれない。

いづれにしろ無事に上陸許可が出たのはよかったが、

 

 時に船客中に一少女が居る。東京新橋の花月楼女将の女(むすめ)で、本年十四歳、女優になりたい志願で、シヤトルの日本タイムス記者藤岡紫郎氏に托せられ、此処まで来たのだが、年齢が幼い上に、保護者が無いとて、上陸を許可されぬ。航海中は大元気の少女も、此れには大いに困つたが、藤岡氏が先づ上陸し、在米日本人の領袖山岡音高氏と謀つて、同氏が全責任を負ひ、自ら保護者と為り、少女は漸く上陸が出来た。

 

今とは時代が違う。

十四歳の女の子を単身でアメリカに渡航させるとは突拍子もない。

花月楼女将は、まず夫妻で欧米視察に出、その後は単独で一年に及ぶ海外漫遊を行っているようだが、だからと言って年端もいかぬ娘ひとりを海外に出すというのは思い切った行動だ。しかも、その動機が女優志願だという。川上貞奴なら女優が海外に行った例だが、海外で女優修行という話は当時あったのかなかったのか。女子はじめての海外留学川上捨松のころから年月はたっているとはいえ異例ではないか。そして、花月の娘は念願の女優になったのかどうか。

『海外行脚』には、その後のこの娘のことは出ていない。

関係者は二人。藤岡紫郎と山岡高音。

その藤岡紫郎『歩みの跡 北米大陸日本人開拓物語』(歩みの跡刊行後援会 1957年)は、書名のとおりアメリカに移住した日本人の歩みを描いて、ロサンゼルスで刊行されたものである。

ここに花月楼女将平岡静子の娘のことが出てくるが、まずは常陸山と山岡高音から話を書き起こさねばならない。

 

山岡高音(養子先の鈴木姓の時代もある)は、自由民権運動のなかで政府の転覆をはかった静岡事件の中心人物の一人。逮捕、拘留ののち刑期途中で恩赦され、その後アメリカにわたって実業家となる。この人物についてもいろいろと知りたいのだけれど、それはさておき、山岡高音はアメリからしばしば日本に帰国しては演説や講演を行っているようだ。その模様を藤岡紫郎が書き記している。

 

 山岡さんが一たび演壇に立つと水を一滴も呑まず、滔々懸河の雄弁を揮い、二時間でも三時間でも多々ますます弁ずるのである。適所にユーモアをまじて人のアゴを解くあたり擒縦自在少しも渋滞しない。したがって聴衆は倦むことを知らず、長講ほど歓迎するのである。

 山岡さんはまた座談の雄でもあった。日本各地を巡回中、政友や旧知の人たちから、よく招待されたものだ。ほとんど毎晩料亭の客となった。座にはんべる大小の芸者衆はお酌をすることを忘れて巧妙なその座談に恍惚と聴き入っているというありさま、すると山岡さんはオイオイそうお行儀よく膝に手を置いて、話に聴き呆けては困るヨ、チとお酌をせんか、とからかう。しかして大きな茶のみ茶碗をグッと差出す。それになみなみとつがしては、一気にぐっと呑み干す。小盃でチビチビやるのは面倒臭いというのだ。

 

さて、その料亭の一軒が、新橋の花月楼である。ここに渡米をひかえた常陸山が登場する。

 

 その当時の横綱常陸山が渡米の折、一夕新橋の「花月」で、女将のお静さんが日頃常陸山のごひいき筋とあって、山岡さんに紹介の労を執り、万事よろしくと頼み込んだのであるが、その席上、常陸山対村岡さんの酒戦は実に物凄く、げこの私などハラハラ胆を潰すばかり、双方とも大茶碗をさしつさされつ、果ては盃洗の大どんぶりで負けず劣らず呷るのであった。常陸山の方は知らないが、山岡さんは少しも紊れた態度がなく、平然として宿に帰り、雷のようなイビキですぐ寝入ってしまった事など、今私の記憶に甦って来る。

 

花月の女将は、前回見たように常陸山に渡米の餞別として避妊具を贈るという悪戯だけでなく、アメリカ滞在中のことを托せる人物を紹介していたのである。実際に常陸山がシアトルの村岡高音のもとを訪れたのか、便宜を受けたのかどうかはわからないけれど、常陸山の渡米には前回の北里柴三郎などいろいろな人の援助があったようである。

しかしここから話は妙な方向へいく。すなわち、娘の渡米である。

 

花月の女将は、山岡さんの豪傑ぶりにぞっこん惚れ込んだものと見え、当時十四歳になる一粒種の可愛い娘みっちゃんを山岡さんに托してアメリカに送って教育を授けたいという話が決定、山岡さんは即座に快諾されたのはいいが、その娘さんの渡航準備がまだ整わないうちに、急に帰米の途についてしまった。

 出発に際して、私の諾否は別として、女将に向って“みっちゃんは藤岡君が同伴するからそのつもりで”とさっさと帰米したのである。

 

船が港についてから山岡高音に身元引受を頼んだのではなく、渡米の前から話はついていたようである。ただ、渡米の目的が女優修行であったのかどうか、ここではわからない。開明的な平岡静子のことだから、娘にアメリカの教育を受けさせたいと思ったのではないかと想像する。

なお、藤岡紫郎は、「みっちゃん」を一粒種としているが、他の資料では平岡静子には子どもが二人いたような記述もあり、詳しくはわからない。花月楼平岡廣高と静子夫妻には、画家権八郎が養子にあり、それとは別に実子がいたということか。

さて、話は「みっちゃん」の渡米である。

 

 そこで、よんどころなく私は同伴したのであった。波止場に出迎えられた山岡さんに、即刻引き渡してほっと安堵の思いをした。そんなことは一向にお構いないらしく、そのいい草が振っていた。“君、とんだみやげをことずかって来たね”と、いつもの調子で呵々大笑されたのには、かねがね山岡さんの気質を人一倍知っている私ながら、ウンザリせざるを得なかった。

 

シアトル到着時の様子に『海外行脚』の記述のような揉め事が出ていない。藤岡紫郎にしてみれば、最初から山岡高音に引き渡す話がついていたのだから、トラブルでもなんでもなかったのかもしれない。

入国を果たした娘は、その後、どうなったか。

 

山岡さんにして見ると、この小娘のアメリカ教育を引受けると申したのは、いわば、ホンの酒間の座興であったのかも知れない。だが頼むほうは真剣でひた向きの念願だったために、途中で“アレはじょうだんヨ”とは、なんぼ人を喰った山岡さんでも取消すことができず、ぞくにいう瓢箪から駒が飛び出したのである。何しろまだ物の哀れさを知りそめぬ十四歳の小娘、それに加えて放縦な狭斜の衢に生い育ったために、不躾放題の我儘一っぱい、まったく手が付けられない。これには山岡さんよりも朝夕何かと面倒を見てやる夫人がホトホト持てあまさざるを得なかった様子だった。たかが十三、四の小娘一人の料理が出来んで、どうするか、とはいっては見たが、所詮どうにもならないので、一年とたたないうちに、とうとう故国の親許へ送還してしまったのであった。

 

常陸山の渡米(その2)

横綱常陸山の渡米には思わぬ方面の援助があったようで、

 

 先生の角力に対する趣味は妙な動機から起つた。友人笹川三男三は先生が独逸から帰つた後の交友であるが。一日何かの用事で訪ねて来たのを迎へて、先生は憂愁に閉された彼の顔色を見て其の理由を尋ねた。笹川は人に知られた好角家である。殊に彼は大の常陸山贔屓であるが、その当時常陸山の洋行問題が心配してゐる旨を話した。之を聞いた先生は一度常陸山に遇うて見ようと案外の厚意を示されたので、笹川が案内役となり、先生と常陸山との会見となつた。尤もその当時両者は鬱勃たる覇気に燃ゆる時代で、初対面と思はれぬほど互の意気は相投合したものである。先生は『苟も日本の台力士として洋行する以上、紳士的態度で行動すべく、断じて興行などをしてはならぬ。洋行費の如きは自分が総て引受けるであらう』と即座に約束し、先づ私財を投じ、また友人の塩原又策等を説いて出資せしめ、又紐育の高峰博士に依頼して遂に常陸山をして洋行の目的を達せしめた。

 

笹川三男三は「ささがわ・みおぞう」で医学博士、医師、赤線検温器株式会社の社長で、これは現在のテルモの前身にあたる。

塩原又策は三共株式会社、いまの第一三共創始者

高峰博士は高峰譲吉アメリカ在住の医学者。胃腸薬タカジアスターゼの発明は有名で、胃弱であった漱石もこれを服用していたのではなかったか。少なくとも、苦沙弥先生は服んでいる。

 

 吾輩の主人は滅多に吾輩と顔を合せる事がない。職業は教師だそうだ。学校から帰ると終日書斎に這入ったぎりほとんど出て来る事がない。家のものは大変な勉強家だと思っている。当人も勉強家であるかのごとく見せている。しかし実際はうちのものがいうような勤勉家ではない。吾輩は時々忍び足に彼の書斎をいて見るが、彼はよく昼寝をしている事がある。時々読みかけてある本の上にをたらしている。彼は胃弱で皮膚の色が淡黄色を帯びて弾力のない不活溌な徴候をあらわしている。その癖に大飯を食う。大飯を食ったでタカジヤスターゼを飲む。飲んだ後で書物をひろげる。二三ページ読むと眠くなる。涎を本の上へ垂らす。これが彼の毎夜繰り返す日課である。吾輩は猫ながら時々考える事がある。教師というものは実になものだ。人間と生れたら教師となるに限る。こんなに寝ていて勤まるものなら猫にでも出来ぬ事はないと。それでも主人に云わせると教師ほどつらいものはないそうで彼は友達が来るに何とかかんとか不平を鳴らしている。(『吾輩は猫である』の「一」)

 

タカジアスターゼの日本側の輸入代理店をしていたのが塩原又策で、だから第一三共では今もその流れをくむ「新タカヂア錠」を販売している。

そして冒頭の引用に登場する「先生」とは、北里柴三郎。新しい千円札の顔。日本近代医学の偉人。ノーベル賞候補。その北里柴三郎常陸山渡米に資金面で援助し、高峰譲吉アメリカ滞在中の便宜を依頼した。引用元は、宮島幹之助・高野六郎編『北里柴三郎伝』(発行:北里研究所 発売:岩波書店 昭和7年)。その続き。

 

爾来先生は常陸山贔屓となつて毎回の大角力には欠かさず見物し、一時は常陸山部屋の力士等は北里邸に出入して、随分世話になつたものである。流石に剛毅の常陸山も先生の前には一小力士の如く至て柔順であつた。常陸山の引退と共に、先生の角力に対する興味も薄らいだものと見え、遂に国技館にその姿をあらはさぬようになつた。常陸山の存命中は勿論、歿後も先生は彼の家族を世話し、再び彼の如き力士を見ることはできなくなつたと非常に惜しまれた。

 

渡米に際してばかりでなく、部屋の力士や没後の遺族の世話をしている。

いわゆるタニマチというやつである。

タニマチという言葉は「相撲界で、力士の後援者、贔屓筋のこと。明治末年に大阪谷町筋の相撲好きの外科医が力士から治療代をとらなかったことからという」と広辞苑にある。医者医学と相撲取りとは相性がいいのだろうか。

話を戻して、常陸山の洋行が決まり、壮行会が行われた。何度か行われたようである。そのエピソードのひとつをサンフランシスコの邦字新聞「新世界」が伝えている(明治40年8月24日付)。

 

常陸山餞別譚

一昨廿二日シヤトル着港の加賀丸にて渡米したる常陸山の留送別会には種々の珍談ある中に新様唯一の割烹店花月に於て常陸山自身橋南橋北の名妓をズラリと並べて留別の盃を汲み換したるが誰云ふとなく常陸が米国にて抓喰でもして花柳病を背負つて来てはいけませんと戯談半分に忠告せしものありしが馬鹿を云へと例の豪放なる態度にて聴流せしが其翌朝花月女将、ちやら次、さとの三名にて恭しく熨斗水引を懸けし包に御餞別と記し贈り越しより常陸は女房のお愛とともに披き見れば大々的ルーデサツク三個ありしより一杯舁ぎやがつたと一同笑に終つたりと。

 

女房といっしょに開いて見た、というのだから洒落にしてはキツい。

が、それで夫婦仲が揉めるでなく、一同笑って終わるあたりが常陸山の艶福家らしいところか。

新橋花月楼の女将は好角家で、常陸山のご贔屓筋でもあったが、話はそれで終わらない。

 

常陸山の渡米

19代横綱常陸山谷右衛門は明治40年に渡米している。

今のように日本相撲協会の正式な海外巡業ではなく、常陸山個人での渡米で、しかも渡航中の場所を休場するというので、協会はこれに難色を示したようだ。

当時の新聞記事にも、

 

常陸山谷右衛門が渡米に就いて、従来協会側より種々喰い止め策をなしたるも、常陸山は断固として初志をかえざりしため、ついに協会側の失敗に終わり、既報のごとく、いよいよ昨朝午前八時十五分新橋停車場を出発したるが、常陸山の当日の服装は、セル地鼠色格子背広を着し、パナマ帽をかぶり、便々たる腹をつき出し、見送り人に対し一々愛嬌をふりまき談笑に暇なかりしが、見送り人中にはおちかを初めその他四、五人の婦人も見え、力士側には雷権太夫高砂浦五郎、各年寄、検査役及び在京力士、行司、相撲茶屋一同、紳士側には衆議院議員奥野市次郎、本所警察署長警視鮫島斉之助、警部川上彦一、高橋義信氏等始め各新聞通信記者、落語家等五百余名にして、場内は人を以つて埋められすこぶる雑踏を極めたるが、横浜波止場まで見送りしものも少からざりき。(明治40年8月6日読売)

 

常陸山は意志を貫き渡米は実現する。

見送りは盛大だったようだ。

「おちか」はじめ四、五人の婦人というのは藝者のことだろう。さらには代議士、警察署長までが見送りに出ている。新橋駅に五百人をこえる見送りが集まったというあたり、この力士の人気のほどが知れる。

それから五年ほどして、同じく洋行のために新橋駅を発ったのが島崎藤村である。

藤村の場合はアメリカではなく、フランスで、しかも洋行の原因が、姪に手をつけたことからの逃走だという。

上司小剣が、『小ひさき窓より』(大同館書店 大正4年)所収の「隠遁の貴族」に書いている。

 

▲先頃島崎藤村氏がフランスに行かれるのを送つて、新橋ステーシヨンに行つた時、そう思つた。日本の文学者は伝来の隠遁空気に包まれている。其処が面白いと。

 

島崎藤村の渡仏が日本文学者伝来の隠遁なのか、醜聞からの逃亡だったのか、はたまた自責の念からの衝動だったのかはわからないが、そのとき新橋駅に集まった見送りは百名足らずだったそうだ。

 

▲裸体踊りの大将常陸山谷右衛門の洋行には、馬車も出た、自動車も来た。警吏の護衛もあつた。ステーションでは駅長も出て、案内するといふのではなかつたらうが、いろいろの指揮をした。見送りは千人にも及んで、プラツトフオームは人で埋まつたと聞いてゐる。文壇の大家島崎藤村氏の外遊に際しては、田舎のお伊勢詣りの見送りのやうで、常陸山の百分の一の景気もなかつた。ステーシヨンの役人は島崎氏一人に対して、特に何うするといふこともなかつた。恐らくはそんな乗客があるといふ事すら知らなかつたのであらう。其処が隠遁者の、或る意味に於ける貴族的の、面白い点であらうと思ふ。

 

このときの藤村の服装は「中折帽に背広服といふ純平民の装ひ」で、上司小剣はそれを「服装は平民的、或は賤民的でも思想は大貴族である。其処が隠遁家の特色とでもいふべきものであらう」とする。藤村が貴族なのか、隠遁家なのかは別にして、本来なら「紋付き袴」が正装の横綱常陸山が「セル地鼠色格子背広を着し、パナマ帽」というのが対照的である。

 

ちなみに常陸山よりも前に渡米を計画した力士がいた。明治37年の源氏山一行がそれだったが、このときはパスポートがおりなかったようだ。その理由が「元来米国と本邦とでは風俗習慣を異にし、我が邦にては今日なお非常に相撲を愛するの傾きあれど、かの国にはこれに類似したるものは、一の拳闘あるのみにて、殊にその拳闘はひとり下流の間に弄ばるる賤技なれば、我が邦の相撲のごときも、或いはこれと同一視せらるるものとせざるべからず」(明治37年8月13日時事)。

「拳闘」とは「ボクシング」だろうか。ボクシングが当時アメリカで下流のスポーツなのかどうかわからないけれど、それと同一視され、日本が野蛮な国と見られては困る、ということか。

わずか三年前に旅券発給が許可されなかった源氏山にしてみれば、常陸山の渡米には相当の立腹をしたようだ。それに源氏山は渡米にからんで協会を脱退しており、その後は不遇であったようだから、なおさらである。萬朝報(明治40年8月8日付)にこんな記事が出ている。

 

先年迄東京相撲の中に居たる源氏山は、曾て同志と共に渡米を企てしに、協会及び常陸山の為其計画を阻害され、遂に其意志を達せざりしが、今回常陸山渡米の事を聞いて太く憤慨せるものと見え、七月三日付にて北海道の出稼先より殺気に満ちたる手紙を寄越し、其の中に近日中餞別として経帷子を贈るべしとの旨を申し来りしが、爾来二旬許消息なかりしに、数日前忽然として本所区相生町常陸山宅を訪来りしも、折柄不在なりしより、一封の書を遺して返つたる由なるが、常陸山は其文中に何事が記されありしか誰にも洩さゞりしと云ふ。

 

源氏山が渡米できなかった事情をこちらでは協会と常陸山の妨害としている。このあたりも、もう少し真相を知りたいところだが、それはさておき、源氏山の心中察するに余りある。萬朝報の記事のとおりだとしたら、死装束の経帷子を餞別に贈りつけようとし(常陸山の渡米には衣装の話がついてまわるようだ)、自宅にまで押し掛けるとは穏やかでないけれど。

 

ちなみに、常陸山は無事に渡米し、時の大統領ルーズベルトの前で土俵入りを披露。相撲は「賤技」とも見なされなかったようだ。

常陸山花月楼女将との関連は次回以降で。

花月楼女将(その5)相撲

花月楼女将平岡静子は相撲とは浅からぬ縁がある。

先にみたように、国技館で相撲見物をし、玉椿を贔屓にした好角家であったようだ。

白井権八『いろ手帳』(美人大学社 大正3年)の「若様腕白録」から引く(原文に適宜句読点を補った)。

なお、著者白井権八のことはわからない。歌舞伎にも登場する「白井権八」の名前を使った筆名かと思われる。。

 

田中銀之助は銀さんの名を以て通る、銀さんは繁さん、鐵さんの兄さん株であるだけに腕白も亦一段上だつた。

併し近頃は余り乱暴はしないが昔は随分やつた。常陸山が入幕当時の人気といふものは素晴しいもので齋藤緑雨も唄ふらく『ぐッと差したる常陸が力、関の鳳凰も振かねぬ』何でも常陸山でなければ日も明けぬといふ大人気、銀さんも角力狂の中に巻込まれてハツケヨイヤ熱に浮かされてゐたが後には堪り兼ねたとみえて御座敷で藝者を盛んに取つて投げた。成程銀さんも女には強いと誰も感心どころか慄へて拝見してゐた。

 

銀さんこと田中銀之助は実業家。繁さんは今村繁三、鐵さんは赤星鐵馬でいづれも銀行家、実業家。のちの大横綱常陸山の入幕は明治三十二年一月場所と、日本相撲協会のホームページにはある。齋藤緑雨にこんな文章があったとは知らなかったが、その人気のほどがうかがえる。

 

一夜或る料理店で多勢の藝者を集めて酒宴の最中『誰か相撲を取らぬか』との仰せ。藝者は『若様とですか』と聞くと『イヤお前達同士』だとの事、声に応じて立つたのは今の花月の女将、其頃のおゑつと今一人は秀松のおふくろなる新田中屋の松次。ふたりは畳二枚を土俵として仕切る、行事の役は銀さんで羽織を裏返しにして早速の裃、軍配はお盆でハツケヨイヤ、多勢の藝者は固唾を呑んでこの絶好取組を見物してゐる。

 

花月楼の女将が、以前は藝者で「お悦」という源氏名であったことは、川瀬蘇北の文章にも出ていた。惜しいことに、どこの藝者置屋にいたものかわからない。「秀松のおふくろなる新田中屋の松次」は、「秀松のおふくろ」がわからない。「新田中屋」は藝者置屋だろう。その藝者二人にお座敷で相撲を取らせるという、他愛もない遊びである。

話の続きも他愛なく、おゑつと松次は、蹴出しから白い脛を見せながら押しつ押されつ、最後にはおゑつと突き放しに負けて、銀さん「松次川ァ」と勝ち名乗り。藝者は島田髪も乱れ、着物は裂けるというありさま。

 

話は変わつて翌日の事である。松次は足も腰もヒシヒシと痛んで起きられない、何故斯う痛いのだろうと不思議に思つてゐると箱屋の善公が御座敷といつてきた。松次は『体が痛くて迚も出られないから』と断ると善公小首を傾げて『妙だなァ、おゑつさんも体が痛むといつて休んだ』といふ。之を聞いて松次はハッと前夜の角力を思ひ出して体の痛む訳を知つて大笑ひ。一方、おゑつの方では松次には力では負ないがとよくよく考へたら、其頃松次は常陸山と深い仲で四十八手の裏表を習ひ覚へてゐたから、強かったンださうな。

 

後に角聖と呼ばれる常陸山には艶聞が絶えなかったようで、松次もその一人だったのだろう。しかし、一方のおゑつ、のちの花月楼女将も常陸山とは浅からぬ因縁があって、そのエピソードはまた次回に。

東京市中音楽会

  あまり古いことのみですから、明治二十二年と新しがって(といっても今より五十六年前ですが)、新橋村の芸妓さんたちが、どんな風に活きていたかイヤサ不良を張っていましたかといいますと、分なもんで、まだ花月の親爺の平岡広高が海軍の予備軍楽隊を集めて、市中音楽隊をドンガラゴンガラ、お料理のツマに演(つか)っていた頃ですが、「第二回音楽生徒募集」なんて札を張っていました。(略)篠田鑛造『銀座百話』(角川選書 昭和49年)

 

 花月楼亭主平岡廣高は料亭経営にとどまらず、いろいろな事業に手を伸ばしたが、ここにでてくる「市中音楽隊」もその一つである。

市中音楽隊について、もう少し詳しく書いているのが、堀内敬三『音楽明治百年史』(音楽之友社 昭和43年)で、

 

 最初の民間吹奏楽団は東京市中音楽会である。明治十九年十一月、海軍軍楽隊出身者の加川力ほか五名が新橋花月割烹店主平岡廣高の財的援助によって是を設立し、新聞広告による百二名の応募者中から二十六名を選出し生徒として入会せしめ、事務所を愛宕下の薬師寺に、練習所を下渋谷の某禅宗寺院に置き、横浜の某ホテルにチャリネ曲馬団や外国汽船の楽士が酒代のカタに置いて行った楽器を安く手に入れて楽器の数も揃はぬながら練習を始めた。

 

加川力は「かがわつとむ」。ほか五名は、同じく堀内敬三『音楽五十年史』(鱒書房 1948年)では、井上京次郎、平岡啓二郎、西村源八、芳ヶ原嘉成、古賀某で、このうち平岡啓二郎の伯父が平岡廣高である。

音楽会といっても、コンサートではなく、ブラスバンドに近い。

料亭経営者が、なぜブラスバンドに金を出したのか。

『音楽明治百年史』によって、設立以降の経緯をたどると、楽器の練習をはじめ、チャリネ曲馬団の楽士ジョージを楽長に招く。チャリネ曲馬団は、イタリアのサーカス。ジョージなる男はコルネットは達者ながら、楽譜が読めないというのでいたたまれず、逃げ出してしまう。

それでも練習を続けて半年後、行進曲、ポルカ、円舞曲など15曲のレパートリーをマスターし、そこでまた生徒を募集、明治二十二年の開業を発表。『銀座百話』に出てくる第二回生徒募集の貼り紙はこのときのものなのか、多少時期が合致しない。

不ぞろいだった楽器も上海から取り寄せ(当時、西洋音楽では上海のほうが先を行っていたと見える)、出張演奏をはじめておこなう。

 

 (略)それは上州桐生の某製紙会社の開業式。力川が指揮者で総勢三十二人。旅費宿泊費は依頼者負担で謝礼は六百円という当時としては大金であった。

 出演依頼は意外に多かった。園遊会・運動会・開業式、寧日なしの演奏であった。そこでまた西洋人の楽長がほしくなって、横浜在泊の米国軍艦マナカッシー号乗組のリゼットというイタリア人の信号兵を月給百二十円で雇い入れ教授させた。

 

維新後、政府は多額の費用をかけて西洋の「お抱え外国人」を雇ったが、民間でも同じことが起きていたようだ。

また園遊会や運動会はそれまでの日本にあったものか、あるいはこれも西洋から入ってきた風俗なのだろうか。

それよりもなによりも、民間初の吹奏楽団を組織した花月楼亭主は、このあと鶴見花月園に日本初のダンスホールを開くのだから、日本の西洋音楽受容史に大きな役割を果たしたことになる。

 

そのうちに横浜のグランド・ホテルから連続的に演奏を頼まれたので、リゼットは加川と生徒をたちとつれて総勢十六人横浜に出張所を設けてその方に詰め、残余の者は東京にいて毎日のように出張演奏をやった。東京市中音楽隊はこうして、明治二十一年には渋沢栄一を社長とする資本金一万円の株式会社になった。株主は渋沢栄一。平岡広高ほか二、三名である。

 

ここに至って財界の大物渋沢栄一が登場する。

平岡廣高はあれこれ手を出して失敗も多いが、この音楽隊は成功の部類ではないかと見えるのだが、ここに別の資料があって、昭和10年趣味の人社から出版の『趣味大観』では、上記の経緯はこうある。

 

かくて民間最初の音楽隊は明治二十一年に至って創設された。此の楽隊の中心は海軍々楽隊を退職した加川力・井上京次郎の両氏、資本主は故鶴見花月園経営者平岡氏で、名前は株式会社東京市中音楽隊と称した。楽器は横浜五十五番のコッキング商会に十六人分あつたのを、千二百円と云ふ当時に於いては可成りの高価を以つて買ひ取り教師には丁度其の頃横浜に入港して居た米艦の信号喇叭手仏蘭西人リゼツチーと云ふ者を雇ひ入れて練習を積み其の初演奏は明治二十二年の上野池の端に競馬場が出来た時行つた。

 

リゼットとリゼツチーは同一人物だろうが国籍が違う。

また初演がかたや桐生の製紙会社の開業式、かたや上野の競馬場。平岡廣高の経歴からすると、競馬場とするほうが自然だが、実際のところはわからない。

その経営状態も様子がちがっていて、『趣味大観』のほうは、

 

当時民間にい於いては可成り洋楽に対して興味を持つ様になつて来たが、之を雇ふ者が稀であつたので、全員四十人に達する同音楽隊の維持は困難であつた。そこで百方奔走の結果横浜グランドホテルに交渉して毎週一回づゝホテルの舞踏会で演奏をする様になり漸く収支償ひ得る様になつた。

 

横浜グランドホテル側から依頼を受けたのか、こちらから頼み込んだのか、実際のところは判断しかねる。

このあとの顛末も両者で異なる。まずは『音楽明治百年史』。

 

 明治二十二年の末に、海軍軍楽隊を満期退職する者が多かったので、その人々は東京市中音楽会へ入ろうとしたがリゼットに拒まれ、そこで新たに「東洋音楽会」というものを作った。これは池田辰五郎など十三名でいずれも技量の良い連中である。資本金は芝神谷町の金貸中村ミサが二千五百円出し、横浜コッキング商会に、海軍へ納入の予定で在庫品となっていたベッソン会社製の楽器十六個一組のものがあったので、それを千九百円で買い、麻布日ガ窪の基督教会堂で練習を始めた。この東洋音楽会は横浜グランド・ホテルに行くようになり、しばらくリゼット・加川の組と対抗してやっていたが、二十二年の夏ごろ合併して「東洋市中音楽会」と称し、リゼット・加川の組は敗北して明治二十五年に神戸のオリエンタル・ホテルへ赴き、神戸市中音楽会を創始した。

 

次に『趣味大観』はというと、

 

かくして市中音楽隊の基礎が漸く確立しやうとした頃、海軍々楽隊より十八人もの楽手が退職して一挙に市中音楽隊に加入せんとしたが果さず、前記の加川力氏を中心にして東洋音楽会と称するものを作つた。こゝに於いて民間の音楽隊が二つになり、相対立して盛んに洋楽の普及に努めたが然し当時の社会状態は両者が並び立つて行く程に迄進歩して居なかつたので、遂に互ひに其の競争に堪へ兼ねて、一つにい合同し東洋市中音楽隊となつた。尚ほ明治二十五年の春両者合同後横浜グランドホテルのリゼッチー一派は神戸市に移り、同地のオリエンタルホテルを根城として神戸市中音楽会なるものを作つた。

 

加川力はどちらに組していたのだろう。

『音楽明治百年史』では、リゼット・加川がセットで「東京市中音楽会」だが、『趣味大観』では加川は当初から「東洋音楽会」でリゼッチーと対立したかのようである。

また『趣味大観』に、平岡啓二郎や渋沢栄一の名前が出てこないのも気になる。

このあたりは、もう少し調べることとして、音楽隊の活躍した場所が横浜や神戸という港町である点は。なるほどと納得できる。

もう一つ、『音楽明治百年史』の文章を引くと

 

 こういう吹奏楽団は後年のジンタとちがって演奏会用の吹奏楽団であった。演奏者たちは新しい音楽を民間に普及させるというような考えでやっていたので、事実上収益は多かったものの、これを営利追求の手段とも考えてはいなくて、どこまでも音楽的企業であった。

 

このあたり、どこまでも子供中心の遊園地としてつくった鶴見花月園とも通じるように思われる。だとすれば、平岡廣高はどこまでかかわっていたのか、またその後の東京市中音楽会はどのような道のりをたどったのか。確かめたいことはいろいろと増えていく。

 

巴里髑髏洞の面々

東京駅にレストランを開くため、欧米視察に出た平岡廣高、静子夫妻の足取りはなかなかつかめない。

齋藤美枝『鶴見花月園秘話』(鶴見区文化協会 2007年)によると、明治45年5月12日、午後6時30分新橋発の急行で敦賀に向けて出発。敦賀から船でウラジオストックにわたり、そこからはシベリア鉄道である。

ロシア、ベルギー、イギリス、イタリア、ドイツ、スイス、フランスを五か月かけて周遊し、8月25日マルセイユを発って帰国の途につく。新橋に戻ったのは、10月2日。旅行中に改元があって大正元年である。明治天皇崩御している。

 

フランスで与謝野鉄幹・晶子と食事をともにしたと江刺昭子+史の会『時代を拓いた女たち第Ⅱ集』(神奈川新聞社)にあったが、それもまだ確かめえない。鉄幹・晶子が帰国後に出版した『巴里より』(金尾文淵堂 大正3年)の「髑髏洞(カタコンブ)」にわずかに登場するばかりだ。

 

 和田三造さんから切符を貰つたので巴里の髑髏洞を一昨日の土曜日に観に行つた。予め市庁へ願つて置くと毎月一日と土曜日丈に観ることが許されるのである。自分は一体さう云ふ不気味な処を見たくない。平生から骨董がかつた物に余り興味を持つてない自分は、況して自分の生活を全く交渉の無い地下の髑髏など猶更観たくないが、好奇心の多い、何物でも異つた物は見逃すまいとする良人から「自動車を驕るから」などと誘かされて下宿を出た。零時半の開門の時間まで横町の角の店前(テラス)で午飯(ひるはん)を取つて待つて居ると、見物人が自動車や馬車で次第に髑髏洞の門前に集つて来た。中に厚紙の台に木の柄を附けて蝋燭を立てた老爺が一人混つて居る。見物人は皆其れを争つて買ふのである。其内に和田三造さんと大隅さんとが平岡氏夫婦を案内して馬車を下りるのが見えた。自分達もレス多ウランを出て皆さんと一緒に成つた。

 

このあと、与謝野夫妻他一行は髑髏の並んだ地下墓地へ入っていくのだが、それはさておき、与謝野夫妻と平岡夫妻は、これが初対面だったのか、あるいは日本ですで旧知だったのか。その場の会話や両夫妻の様子など、この文章には出てこないので、わからない。

登場人物は、五人。

和田三造は洋画家。東京国立近代美術館にある「南風」(重要文化財)が特に有名で、

このとき、文部省から派遣されてフランスに留学中だった。和田三造作は白馬会に所属し、黒田清輝に師事、これはともに平岡夫妻の養子平岡権八郎と同じである。それで和田三造が平岡夫妻を案内していたのだろう。偶然にも、和田三造、平岡権八郎ともに明治16年3月3日生まれである。いわば息子が両親を観光案内している図に近い。

また与謝野晶子の『佐保姫』(日吉丸書房 明治42年)に和田三造は挿絵を描いているので、接点はあrった。直接の面識があったかどうか、全集などをあたって確かめたいところだ。こういうことは、与謝野晶子の研究者がきっと調べているだろう。

 

大隅さん」がわからない。「大隈」には「おほすみ」とルビが打たれている。

勉誠出版の『鉄幹晶子全集(10)巴里より・八つの夜』では、「大隅」に注釈はつけられていない。別の全集をあたるべきか。

ちなみに平岡権八郎は、大正6年の第11回文展に「大隅氏の肖像」を出品し、特選を得ている。この「大隅氏」は、パリにいた「大隅さん」と同一人物だろうか。

 

こういう文章が手掛かりになるかもしれない。

小野賢一郎『陶心俳味』(茜屋書房 昭和6年)の「開眼供養」の一節。

 

 昼近くなつて和田三造、平岡権八郎の両君がやつて来た。陶器を見て鶏龍山と宋赤絵がいゝといつてゐた。仏様を拝んでくれた。「これはいゝこれはいゝ」といつてゐるところへどやどやとやつて来た。曰く岡田三郎助、辻永、大隅為三の諸君である。

 

この大隅為三が「大隅さん」「大隅氏」かどうか。

大隅為三であれば、『日本美術年鑑 第3巻』(画報社 大正2年)によると、

 

明治一四九月十五滋賀県東浅井郡大郷村落合生、考古学及美学専攻、三七年東洋大学卒、三八年に仏国に留学、仏国クルボン大学にて古典文学美術を研究四四年同大卒、四三年より四五年迄巴里ヱネリ博物館勤務、後欧州各地南洋及印度に遊歴し、大正二年二月帰朝(略)

 

とあるから、明治45年当時はパリにいたようで、「大隅さん」が大隅為三である可能性は高まるが、与謝野、平岡両夫妻と旧知であったかまではわからない。

ちなみに「クルボン大学」は「ソルボンヌ大学」の誤植かもしれない。「ヱネリ博物館」もよくわからない。更に言えば、「開眼供養」の筆者小野賢一郎はこれらの人々とのかかわりはどういうものだったのか。

そこまで踏み込んで何が出てくるのか、なにも出てこないかもしれないが気にはなっている。

 

与謝野晶子の「髑髏洞(カタコンブ)」から画家美術家の交友関係の一端が垣間見える。平岡権八郎には一方で養父から継いだ花月楼亭主としての顔もある。二つの顔を持つ平岡権八郎の足跡もまた義理の両親に負けず劣らず面白いのだけれど、それはまた後日の話。